ふみこストーリー

このページは、フミコの足跡です。
人生のターニングポイントになった出来事です。
長いのでお時間がある時に読んでみてくださいね。

自分で思い出しながら書いていて

本当にご縁に恵まれていると つくづく。

この他にもいろいろありました。
どのご縁、どの出来事ひとつ欠けても
今の私はないのです。
全てに心からありがとうございますです。

晴れ道・雨道 いろいろでしたが
私のつけた足跡には、いろんな花が咲いています(^^)




幼少期

1962年生まれ。倉敷市。紳士服仕立て職人の両親と祖母と姉の5人暮らし。
幼い頃は祖母っ子。
体も小さく、同級生と遊ぶよりは、近所の小さい子と遊んでいました。
どんな時も玄関を開けると両親がいて、鍵っ子に憧れました。両親とも忙しくしていて、構ってもらえなくて寂しかったことが、後々のセッションで気づけました。
夢はお母さんになること、と、魔法使いになることで

奥様は魔女・魔法使いサリー・ひみつのアッコちゃんなどを見ながら日々研究を重ねていた。と言うよりは、なんで私は魔法が使えないんだろう?と思っていました。
影響を受けた父の言葉…  友達を羨むと「そうか そこの子にしてもらえ」、「うちの常識他人の非常識」
そして
親族ご一同さまは、私のことを”みこ”と呼びます。由来は父が「腑抜けのミコ」と言っていました。なので、自分のことをず〜っとバカだと思っていました。
あるきっかけで、大好きな従兄が「みこちゃんバカじゃないが〜」と言ってくれて、「そ〜なんじゃ〜」と思えました^^ 
素直なのか馬鹿正直なのか…  困ることもあったけど、だからこそたくさんの人や…  神様にも助けてもらえたと、今は思っています。
かみさまとのやくそくの映画を見てから、神様が身近に思えるようになり、「みこ」で在れるようにと精進するようになりました。本当に出逢いって面白いなぁと感じています。

学生時代

小学生の時は”外では”おとなしかったと思う。
中学校・高校ではバスケ部。
からだが小さいし、足も遅かったので戦力にはならなかったけど、練習を休まなかったことを顧問の先生に認めてもらえて嬉しかった。

高校3年生で引退後、姉の誘いでボランティア団体に参加。
保育園の園長先生、社協・福祉関係など、いろんな大人に混ざって活動…と言うよりは、遊んでもらっていました。
障がい児対象のクリスマス会やキャンプにも参加。
ボランティアという概念ではなく、子どもたちと同等に無邪気に遊んでいました。
ボランティア仲間に、初めて連れて行ってもらったスキーでは、「みこちゃんこれ飲んだら上手に滑れるよ」と… 後々考えると、あれはビールだった 笑

ハンディを持っている人がリーダーでボランティアをする立場の会もあり、また、ハンディを持っている子どもたちがとても逞しく、「障害や病気を特別なもの」とは感じることなく過ごしていました。
免許を取ったばっかりの私に車椅子仕様の車を運転させてくれたり…
本当に人に恵まれて育ったなぁと思います。

結婚・子育て

20歳で結婚。21歳(長女)・24歳(次女)・26歳(長男)で出産、3児の母となる。
結婚は…  夢の実現でもあり、育った環境と180度違う環境の体験でもありました。
夫は仕事が忙しく、長期出張なども多かったのでひとりで工夫しながら、不器用ながらも子育てを楽しんでいたと思う。

経済的には厳しく節約と工夫をしていた。
会社の社宅住まい。
ドラマのような出来事(笑)もあり、苦手な環境の中で生活していた。

中学時代の同級生のサポートもあり、書写講師の資格をとって、幼稚園児を対象に硬筆の先生をさせていただいていたけど
次女が新1年生の時、夫の仕事が転勤となり、大阪へ。

スピード感の違う大阪では、出かけるのが苦手で約3年間明るい引きこもり。家にこもって手仕事などを楽しんでいた。
縁あって公立高校の食堂のおばちゃんの仕事をしながら、友達も少なく密かに生きていた。
倉敷時代の友達からネットワークビジネスを教えてもらい、
「日本人の80%以上が、死を目前とした時に、”こんなはずじゃなかった”という」ことを知り、このままではもれなくそっちだと危機感を抱くようになる。
世界観が変わり、出かける機会が増え、その中で、『あなたの主語は?』と問われるようになる。

それまでの私は、母・妻・嫁・娘・大人としてなど
自分を主語に考える習慣を手放してしまっていた。
体質改善で虚弱体質から、元気を取り戻すきっかけにもなった。
話すことが苦手だった私は、このネットワークビジネスの中で約15年間、毎月ニュースレターを書きました。この時の経験は今もとても役に立っていると思います。

家族の病気

高校生活では、バスケ部で活躍したり、学力もトップクラスで元気いっぱいだった次女が大学進学が推薦で決まった頃、生きる意欲を失ってしまい、
毎日毎日、日夜問わずの気の抜けない日々。
同じ頃、実父がALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、

真っ暗闇のジェットコースターに乗っているような感じで、見えない光を求めて足掻く。
約5年間、最愛の二人をなんとかしたいと奔走。
からだは元気なのに死にたい娘と、生きる意欲はまんまんなのに日々からだが動かなくなっていく父。
この二人をどうしたい?
『笑顔にしたい!』
頑張ることと、我慢することが得意な3人の課題は
頑固な頑張りと、頑固な我慢から自分を解放すること。
二人を笑顔にするには、まずは自分自身が笑顔であることが必須!

私の足掻きに並行して、いろんな人に出逢っていく。

なんとかしたい!

心理分析士の長谷川泰三氏との出逢い。
元々は次女のカウンセラーでした。
次女が相談の電話をする度に、電話を切った後に私に電話をくれて

「かぁちゃん大丈夫か? カンシャクに付き合うなよ、カンシャクに付き合ったら死ぬぞ」と。
「カンシャクってなに?どうしたらいいの?」
スッキリとしない状態から脱出するために

金沢で開催された「心理分析士養成講座」で学ぶことに。
公開カウンセリングでの、様々な立場の人の心理状態を、延べ3000パターン以上体験。
投影・観念・傾聴の理論も学ぶ。
大阪での開催はサポートで参加。
私がどんなお母さんだったらよかったのか?
良いお母さんでも悪いお母さんでも普通のお母さんでも、悩む子は悩む。
母親の良し悪しではないことに気づけ、母親としての罪悪感・無価値観からは解放される。
師が教えてくれた心理図(苦しみの連鎖)では納得がいかず、自分なりに心の仕組みを組み立て、自分なりの心理図(理想図)をつくる。
色々ここに書けないことも沢山体験しながら、次女は「生きる」を選び、
おかげさまで父も笑顔で卒業。
次女がお世話になった精神科の医師に、「私のように回復したのは何%くらいですか?」と聞いてもらうと「お前だけやわ」と言われたと。
「オカンが違う」らしい。

病気は遺伝的な解釈が一般的?? 病名がつくと安心する?
主治医が娘の病名(アスペルガーとかADHD)を告げるたびに、この子が病気なら、私の方がもっと重症ですと却下。
病気には薬でなんとかなるものとならないものがある。
私にとっての病気は、何かで補えばよいもの。
学生時代の体験からの思考だと思う。

次女を見ていると、医師が処方する薬を服用すればするほどしんどそう。
「夜眠れないから眠剤を処方されていたら、昼も夜もずっと寝てることになります」と、主治医が言うことをことごとく却下していた。
もうひとつ…  
次女は、主治医と私には「死にたい」と言う。
病床のおじいちゃんにも言えるのか?と、大阪の受診から直接倉敷に車を走らせ、父と対面させたこともある。
父には何にも言ってなかったけど、
やっと動く指で書いた父の一言が「あなたはいつ死ぬの?」
次女も私も目を疑う。。。
「もう少し〇〇してからにする」ととっさに答えた孫に、父は指でOKサイン。
なんとも不思議で、そしてありがたすぎる経験で、父には感謝しかない。

お母さん辞めます宣言

父のことと娘の事が一段落して、改めて「私」を主語にすることを意識しようとしても
雑然とした日常の中では無理と判断。
このままではもれなく後悔の80%に属すと感じ、危機感溢れ…
心機一転!!

2010年の元旦にお母さん辞めます宣言。(私48歳、息子が大学卒業の年)

この決断が人生の大きなターニングポイントとなるとは♡

まろわ講とウーマンドリプラ

縁あって平成の花咲爺と称される 竹田和平さんのまろわ問答講(メーリングリスト)に参加。
度々名古屋に出向き、和平さんのコアな会に参加させていただく。
仲間と共に「ありがとうカウンター」で1万回ごとに叶った奇跡を記録。
私の13万回目の奇跡は、2011年1月16日に和平さんの1日1言ブログでたんぽぽの小冊子を紹介していただいたこと。
本当に嬉しかったです。
もう一つ縁あってウーマンドリプラに参加。
夢がないのにプレゼンターとして立つことになって、みんなの協力で絞り出した夢。
ウーマンドリプラでプレゼンした「たんぽぽハウス〜笑顔の発信基地〜」
『ここにくれば笑顔になれる、笑顔になってまたそれぞれの場所で花を咲かせよう』
まろわ問答講仲間の協力で実現。
たくさんの方の支援を受けて、2011年に大阪高槻市に基地完成。
本当にたくさんの方が来てくださり、基地が活性して、元のオーナーが元気を取り戻し、お商売を復活されることになり撤退。
「ふみちゃん、変な責任感は誰も幸せにしないよ」との言葉に救われる。
高槻を撤退した後、地元でチェロコンサートを主催させていただいたのを最後に燃え尽き症候群のような気持ちになってしまった。

北海道で動けないフミコと共に

2011年12月 ある方に「内観士」になるといいよと声をかけていただき、まずは自分が内観を受けに千歳へ。
自分の中に”まだ”こんなにしょうもない怒りがあったのか〜と思い知る経験をして倒れ込む。
予約していた飛行機に間に合うようにと、気づいたら30時間寝続けていた。
さて…  北海道の知人二人に、道東紋別郡興部(おこっぺ)に会って欲しい人がいると言われ、次に北海道に来るのは当分先のことだろうと思い、札幌から高速バスで向かうことに。(北海道の広さをわかっていなかった)
この日はまさかの大雪で、岩見沢に自衛隊が出動した日。高速バスならぬ地道ルートで紋別まで。予定の5時間をはるかに越えた8時間以上。
そして…

会ってほしい人=フミコさん!(現地に着くまで知らなかった^^;)でした♡
少しだけ話して帰るつもりが、、、結局8ヶ月滞在。
興部にいたのはALSで動けない「フミコ」さん。お母さんと13人のヘルパーさんの支援を受けていたけど、喋ることができないために思いが伝わらず、「めんどくさい人間なの」と悲しそうに語る。特技と言えるかどうかわからないけど、私には「フミコ」さんの言葉が聞き取れて、コミュニケーションがとれるようになるまでお手伝いしていたら、8ヶ月かかった。
毎晩夜中に2〜3回 寝返りのお手伝いをするのを8ヶ月間1日も休まなかった。
ヘルパーさんと同等な立場になるために、大雪の中、ヘルパー2級の講座に通ったり…
木工のクラブに参加させていただいたり、興部の長寿大学でお話しさせていただいたり、本当に貴重な経験をさせていただきました。
失意のどん底のような気持ちだった私にとっても、本当に貴重な8ヶ月でした。

写真はオホーツク海に流れ着いた流氷に乗っているところ。
もちろん着岸しています(^^)

三重県でホテルスタッフ!

2012年8月、北海道のフミコさんのことが一段落した頃、ふと見たメルマガで、三重県のリゾートホテルの住み込みの仕事を発見しました。
(友達が、探し物は大天使チャミュエルちゃまにお願いするといいよと言ったので、お願いした日にメルマガが届いた^^)
50歳新入社員未経験可。。即エントリーしました。
面接の日にはすでに運営が変わることが決まっていたという、波乱に満ちた幕開けでしたが、そのまま採用していただけることに。
よく採用してくださったと改めて感謝しかないです。
無謀としか言いようがないけど。。雇ってもらえたので貴重な経験を積むことができました。

ホテル業は神業だとおっしゃる方がいて、これを制すると全てを制すると教えてくださいました。
が…
ブライダル部門で入社。実は電話さえまともに取れずで、四苦八苦。
3ヶ月の研修期間を終えた時に事務作業はできるようになったけど、ブライダルの専門業務は「やっぱり無理です」と。
総支配人の采配で、朝食と夜のショップ担当と、日中が休みというイレギュラーなシフトで働くことになりました。
また、年末年始は満員御礼の中で、ビュッフェ方式の食事を担当させていただき、着物と下駄で走り回ったのは、大変だったけど楽しい思い出です。
その後、客室係:客室清掃からベッドメーキングも貴重な体験。
最初は社員とベンダーさんの区別もままならなかったけど、おかげさまで約7か月間でアルバイトの方からベンダーさんまで皆さんと仲良くなれました。
翌年3月に再度運営が変わることになり、退職させていただきました。

伊勢の父 中山靖雄先生との出逢い

北海道にいた頃、中山靖雄先生のご本を出版される話が出ていて、「テレビ寺子屋」の音声データを書き起こす仲間として参加させていただいていました。
実は2010年に、「伊勢の風を感じる会」に参加させていただき、主催者だった方に中山先生のご自宅に案内していただきました。
出逢ったその日に、ハグをしていただき、「あんた よく頑張ってきたんだね〜」と
背中をさすりながらの一言に、鼻水と涙で先生のお召し物がずるずるに。。
北海道に滞在中のほぼ一年は、長女が伊勢修養団の活動に参加させて頂き、縁を繋いでいてくれました。
ホテル勤務が決まり、お休みごとに神宮参拝と中山先生宅へお邪魔しました。
初めてのホテルの仕事はとても大変で、泣き言ばかり言う私を、「困ったもんだねぇ」と仰りながらも、温かくサポートしてくださいました。
中山先生の携帯電話のヘソを押すと私に繋がる!

本当にありがたい奇跡でした。
また、たくさんの方を中山先生にお繋ぎしました。
2016年4月には、奥様の緑さんに神宮をご案内いただき、また貴重な体験をお話いただく「伊勢の母・中山緑さんに学ぶ、御霊で生きるとは」を主催させていただきました。

ここでちょっと さらっと59年のプロセス

私の父は予科練の時に終戦を迎えたようです。
父親は早くに亡くなっていて、頼りにしていたお兄さんが戦死して、戦後、今治にあった家が火事になり、
倉敷に嫁いでいた姉を頼って、祖母と二人、リヤカーで来たと言ってました。
紳士服の仕立て職人としての腕を磨き、岡山天満屋のオーダーメイドを請け負っていました。
残り布で作った鍋敷きを世界一高級な鍋敷きだと笑っていました。
電化製品も家も車なども、自分でメンテナンスをするとても器用な人でした。
母は、おばあちゃんとの折り合いが悪く、いつも喧嘩していました。
私と姉は「また始まった」と避けていて、二人とも母のことが大嫌いだったようです。
私が中2の時に、自宅で祖母を看取ってから、
近所に新設された特別養護老人ホームのボランティアで、洗濯場・掃除場を経て、寮母(介護士)になってと頼まれて、私が高校生の時=母45歳から結局70歳まで働きました。
最初の2年間に、3人ほどの先輩の相当ないじめに遭ったようで、とても苦しみながらも、家に帰ったら全ての愚痴を父に 話して  話して… ある時、吹っ切れるように開き直れたそうです。
どうせ否定されるなら、否定されるままにできることをやろうと。
「あの時お父さんが、一言でも”やめろ”って言っていたら、絶対に続かなかったと言ってました。
このことがきっかけで、おばあちゃんとの関係も、お互いの物事の伝え方が歪んでいたからだと気づいたそうです。
思い起こすと、父は誰も否定しませんでした。
私が悪いことをしても、自分が気づくまで黙って尻拭いをしてくれていたようです。
晩年、どんなきっかけだったかは忘れたけど、私がした質問に「来世は野良犬になりたい」と言いました。
母の最期の時期、自分の母親との思い出や、おばあちゃん(姑)とのこと、そして 
父とのことをいっぱいいっぱい聴きました。
父がどれだけ母を愛してきたか、そして私たちをどれだけ尊重してきたのかを痛感したのでありました。
実は、後々気づいたのだけれど、私の結婚は、実の両親を否定しての結婚でした。
職人という仕事には休みがありません。家族旅行は町内会のバスツアーか、今治へのお墓参りのみ。
父は本当に仕事人間で、
私は、いつも目の前にいるのに、全く構ってもらえず、寂しかったようです。
定時があり・土日が休みのサラリーマンに憧れていたようです。
9歳年上の夫は同じ会社の先輩で、とても優しくて頼もしい人でした。
夢見る夢子ちゃんの私は、勝手に自分の理想像を掲げて20歳で結婚したのでありました。
が…   私の夢は結構早々に破れ^^; 
嫁姑問題勃発・夫は忙しくて家に居ず、土日も居ず、ザ・マイペース。
実はネットワークビジネスに出会った頃の私は、口を開けば誰かの悪口&自分が全くない人でした。
「あなたはどうしたいの?」を10年ぐらい聴き続けてくれた先輩:逃げ続けた私。
日本人の80%が「こんなはずじゃなかったと終わる」を知りながらも、ひたすら現実逃避をしていました。
ビジネスを頑張る中でも、思うように言葉が出ない私は、うまく伝えることができず…
唯一の手段が、10年以上書き続けたニュースレターで、「情報と思い」まとめること・伝えることの訓練になりました。
ある程度のタイトルを達成した直後に、一番信頼していた人が兄弟系列に移動するという、ショックを機に動けなくなりました。
そして次女が壊れた!
今、この時のことを私なりの宇宙語で分析すると… 
闇雲に作り上げようとしていたジグソーパズルをバラバラにして箱に戻した感じ。
次女の言葉をきっかけに、まずは私の悪かったところ探しから始まりました。
それは、結果的には、自分の”都合”で自分の両親を否定していたところに到達しました。
実は、白草家は真逆のタイプで、必要以上に介入されることに対して、大反発^^;
私にとっての結婚は、生まれ育った環境に、感謝するための経験だったように感じています。
子供の頃に寂しかったのは、両親が構ってくれなかったからだけど、実はその恩恵は自律心でした。
あえて「自律心」 自立心ではないのがポイントです。
実は自立しようとして「お母さん辞めます宣言」をしたのだけれど、どこへ行っても誰かに守ってもらえ、
結局自立(独立)はできずで、孫に連れて帰られました 笑
私のエゴは、一人で生きようとすること・独立することだったのです。 独立は孤立でした。
どんなに合わない人とでも(家族であっても)、『共に何かをする必要があるならば』…
まずは自分自身がどうしたいか
目の前の人たちは何を意図しているか
そして、今この場にどんなことが実現できると嬉しいか
三つの要素の調和があってこそだと感じています。

めっちゃ長くなりましたが、今に至る59年のプロセスを書きました。

かみさまとのやくそく そして 孫誕生!

2014年、次女のお腹に新しい生命が宿ったことがわかった頃、
大阪で「かみさまとのやくそく」という映画に出逢いました。

なんとなく
「私は 何か 神様と約束してきたのかな〜」と思うようになり、この映画に出ている人に詳しく聞いてみたいな〜と思っていました。

次女が、東京の住まいの引越し(大森から葛飾へ)の5日前に、切迫早産で緊急入院。
たまたま(?) 家に戻っていた私が東京へ手伝いに行くことに。

東京でもたくさんの出逢いがありました。

同じ病室で過ごしていた方々や、
ママカフェを営んでいる方々との出逢いがきっかけで、
映画「かみさまとのやくそく」の荻久保監督さんや池川明先生にもリアルに出逢え、色々お話を聞く機会に恵まれました。
そして
なんやかんやあっても、無事に生まれてくれた進之介を連れて
なんやかんやありながら、次女と進之介と一緒に大阪に帰ることになりました。
(この なんやかんやは、語るに一晩では足りません^^;)

それまでバラバラに住んでいた私たち夫婦と子どもたち3人が
一同集結というタイミングに、ちっこい進之介が加わり、6人家族という面白い生活が始まりました。

後々
進之介が5歳になった頃に、「しんちゃんはなんで生まれてきたの?」と聞いたら
「この家族が楽しそうだったからだよ」と。

それから一年後くらいにも、同じように聞いたら、
「だから〜 前にも言ったけど この家族が楽しそうだったからだよ」と。

進之介は、私たち家族が 絆を深めるために、生まれてくれたのかもしれません。

孫育てと母の看病

私の未熟な子育ては、ひとりで3人でしたが
進之介は大人5人に囲まれすぎながらスクスク育ちました。
熱を出したり鼻水を出したり、いろいろありながらですが
ほとんど病院にもかからず、カラダにもココロにも自己免疫をつけて逞しく面白く大きくなっていきました^^
昔の人が「知恵熱」と表現したことが実感できるくらい、発熱と共に
バージョンアップしていきました。
私は、自分の子育ての時代の当たり前をどんどん手放すような…
価値観の違う子育て法にたくさん出逢い、

目からウロコがポロポロ落ちていくようでした。
そして、娘の子育てを手伝いながら、自分の過去にエールを送っていました。

また
80歳までは病気知らずだった母が、いろいろ病気をするようになり
みんなで看病も体験しました。
家族にとって私が必要な時期は、ちゃんと家に居るんだなぁ。
これもまた
神さまとの約束なのでしょうか。。

孫育て大奮闘!

次女 志織さんに進之介さんが生まれ
長女 愛弓さんに楓さんが生まれ
より一層、賑やかさが増しました。

楓さんが生後6〜8ヶ月の時
愛弓さんは、離職者のサポートで、専門学校に通いました。

倉敷在住の母も体調を崩していた時期で、
私が行くことは難しく、
倉敷から母に来てもらい…

朝、進之介さんを保育園に送っていき、その足で楓さんを迎えにいき
離乳食を作って…
母の看病もして…


忙しさはあったけど
とても充実した日々でした。

自分の子育て期を思い出しながら
懺悔 懺悔の時期 と いうか…

色々
余裕がなかった子育てと

気持ちには余裕がある孫育て

母からのいのちのバトン

三方良しを
体験させてもらえることに
めっちゃ 感謝の日々でした。



母の看病 そして 看取り

2018年の初めに腹膜播種の宣告を受け、大好きな卓球ができないなら、倉敷にいても仕方ないと大阪に来てくれて、孫たちひ孫たちに囲まれて過ごしました。
卓球を3時間しても疲れを感じないタフさと、試合でも好成績を残すぐらい楽しんでいました。
他にも太極拳とコーラスも楽しんでいました。
進之介にとっては、相撲をとってくれていた”えっちゃん”が、横になることが多くなり、「人が弱っていく」体験をしました。
2019年1月31日は父の十三回忌で、どうしても自分が執り行いたいと
コルクボードに書いて貼って目標にしました。
最初は大きな病院にお世話になっていましたが、オペもできない・抗がん剤もできない患者は当院では見守れないとのこと。
主治医のあまりに冷酷な表現に、母がいないタイミングで私が声を荒げると、看護師さんが訪問看護を紹介してくださいました。
いろんな民間療法も色々試しましたが、最初は効果が得られていても、
そこに母の「もっと・もっと」の感情が乗ってしまうと効果が薄れていく。。。
やはり病は気からと言いますが、本当にそんな感じでした。
ヒヤヒヤしながらの秋が過ぎ、無事に新年を迎え
2020年1月27日 大阪から今治まで往復700キロ、一泊二日、総勢16名で、無事に十三回忌の法要をすることができました。
そして
訪問医にも恵まれ、処方してくださるお薬がよく効いて、苦痛をうまくコントロールすることができて、最期まで家で過ごすことができました。
長男も家から通っていた時期で、長女も近くに住んでいて
みんなで声をかけ合いながら看病できました。
体調の良い日には積極的に出かけました。
最後のお出かけは2月2日池田市のカップヌードルミュージアム。
自分好みのカップヌードルを作り、逝く前日に1/4を食べ、残りはお棺に入れました。
「いつになったら食べられるじゃろうか?」というので、しんどくなったら座薬を入れてあげるから食べてみる?と、1/4を本当に美味しそうに食べました。食べさせてあげて、本当に良かったと思います。
残りをみんなで食べようかと思いましたが、「食べたかったのに〜」と言われるような気がしてお棺に入れました^^
うちの玄関前には15段の階段があって、自力で上がった最後の日でした。
半年間、ほとんど寝て過ごしていたのに、この階段が最期まで上がれたのは大好きだった卓球のおかげだと思います。

駆け抜けるような1年でした。
悔いがないといえるかどうかはわかりませんが
私の抱っこで最期の時を迎えることができたことは
本当に良かったと思います。


両親を見送って思うこと

父は74歳でALSという難病になりました。約5年間、徐々に不自由になる父を母は温かく見守リました。二人とも人のお世話をサラッとする人で、人の世話になるのは苦手で、父の最期の1年は呼吸さえも機械に頼らなければならない状態で、とても過酷だったと思います。
人工呼吸器を意志に反してつけられた時は(仕方ない状態で)母に殺せと何度も言って困らせたそうです。私が駆けつけた時にも、何かしてほしいことはありますか?と尋ねたら、殺せと言われました。「ごめんね それだけは誰にもできないんよ 他にはない?」と聞くと、「台所の換気扇を掃除しといて」と。これには参りました^^
父は母が幸せなことが一番でした。父が逝ってからの方が、より近くで見守ってくれているように思うことが増えました。
そして、びっくりするくらい母や私たちが困らないようにと、いろいろ準備してくれていたことに、次々と出会いました。
母は80歳を過ぎてから、いろんな病気になりましたが、本当にサクサク治して復活しました。
でも、白衣(主治医)の「ガン」の告知は違いました。
パワフルな母にとって、頑張ることは得意でも、諦めることが苦手で、
治療法がないという言葉に落ち込みました。
やはり伝え方って大切だと感じています。
逝った日が2月15日で、菩提寺の住職が「お釈迦さまが入滅された日ですよ。さすがですね」と言ってくださらなかったら、私は白衣を一生恨んでいたかもしれません。
両親を見送ってあらためて、死が怖くないものと思えるようになったことは
両親からの最大のギフトだと感じています。
この二人を両親として選んで生まれてきた自分を褒めたいと思います。

高知土佐清水の海癒で3ヶ月

母を見送って、いろいろな手続きを終えてから、少し休憩をしたいと思いました。
正直な気持ち、何を支えに生きて良いのかわからなくなったような気持ちもありました。
6月の初めから8月末までの3ヶ月、wooferとして滞在させていただきました。午前中は大汗をかいて、海や川で汗を流す。オーナー夫妻のみっちゃんたえちゃんと本音で語り合う。私は泳ぎが苦手で、毎日一人で海に行ってシュノーケリングの自主練。柏島や海亀ツアーなどに連れて行ってもらうと、自分の技量の低さにがっかり…、目標を決めてチャレンジして、海の底に鎮座している”タコノマクラ”が採れたことは何よりも嬉しかったです。
なんと、滞在を決めた部屋に「海からのしょうたいじょう」という本があって、主人公はあかんたれのふみこちゃん、作者は悦子さん。
母と共に過ごしている気持ちになれました。
7月には子どもたちも遊びにきました。
wooferは、半分仕事・半分遊び。
午前中の仕事とディナーの手伝い&片付けを働いて、あとは自然と戯れる。カーテンのない生活、日の出と共に起き、波の音を聴きながら過ごし、海面に映る月の光を楽しむ。台風の多い年で自然のパワフルなエネルギーも。
人間の小ささを実感しました。
実は、母を看病しながらの1年間で、あるインストラクターの資格を取りましたが、大自然を満喫しながらの3ヶ月で、このスキルを使うことに違和感を覚え手放す決意。

空っぽになって大阪に戻りました。


高知 土佐清水 海癒(かいゆ)のHPはこちら

イヤーコーニングジャパン認定セラピスト

イヤーコーニングはほとんど言葉を交わさないセッション。
人一倍言葉を意識する私だからこそ、誰かに何かを言ってほしい訳ではない時がある。
2019年9月 近藤真澄さんの東京のサロンへ伺いました。
初めては2013年? 2回目は2016年? 3回目だったので「巫」をリクエスト。
いつもはほとんど話さないのに、この時はセッション前に近況を聞いてくださり
母を看取ったこと、倉敷の実家をどうしたら良いものか… ボソボソと話しました。
初めて受けた時も2回目も、ほとんど体感がなく、湧き出る感想もなかったけど、
3回目は目が覚めた時に、『あ〜帰ってきた〜』と言葉が出て、
真澄さんの『おかえり〜』にホッと♡しました。どこへ行ってきたのでしょう...
そしてセッション後に「倉敷のお家でセッションできたらいいね」の言葉にびっくりするものの。。そのお言葉を嬉しく受け取り、基礎コース・認定セラピストのコースを受けさせていただきました。

ありがたいことにイヤーコーニングジャパンの認定セラピストとしてご紹介いただいています。

まさかの起業届け  屋号「もとひとつ 」と素敵な印章

2021年1月に「もとひとつ 」という屋号で開業届を提出させていただきました。
タイミングのきっかけは、
孫2号 楓さんと、孫3号 颯大くんの保育園入所希望に区役所で手続きをしていたら
おばあちゃんが無職だと許可が降りにくいと。
お仕事はさせていただいているのですが…  と話していると…ややこしい。。
起業ってどうすれば良いのですか? の質問から
税務署に行ってどうのこうの…
こんな時はナホちゃんに聞いてみよう!!と電話したら
すぐに繋がって、サポートしてくれて
税務署の担当の方もとても親切で、、手続きトントン
そんなこんなで なんと 起業届けを提出したのであります。

そして・・・

以前に命の授業の腰塚勇人さんが素敵な印章を見せてくださっていて
「いつか私も」と思っていました。

篆刻家 一級印章 彫刻技能士 藤原通禮 さま  手彫り印章 憧れです♡

「もとひとつ 」という印章を作っていただきたいのですが…

私の電話での拙い思いの表現を、こんなに素敵な印象に表していただきました。
本当に背筋が伸びる思いです。
この印章に恥じないように精進いたします。

コロナさんでタイミングを逸してますが
ぜひ工房を訪ねたいと思っています。

イルカトレーナーの研修生?!

2021年2月に母の三回忌を無事に済ませ、世の中がコロナ一色になった頃…
何もする意欲が湧かず、ある方のセッションを受けました。
『癒しすぎ注意報』
「人に何かをするよりも、まずは自分を満たさないと」
「イルカに遊び方を学ぶと良いよ」
イルカですか??
イルカの壁紙を貼ったり…  
いつもなら海遊館に会いに行くことができるけど、コロナで閉館で…
和歌山の太地町にイルカに会いに行きました。
そして、サイトを検索していて見つけたのが「イルカの研修生」制度。
問い合わせをすると6月に受け入れてくださると。
実は詳しく何も聞かずに行ってびっくり、ドルフィントレーナーの専門学校の生徒さんの実習施設で、毎日100kg以上の食餌の準備から生簀の掃除などハードな2週間を過ごしました(笑)
こちらの施設は、トレーナーの育成もありますが、野生のイルカが生簀で過ごせるようになること、そして人が関われる(水族館などで飼育ができる)ようになることを目的としていました。
イルカや鯨の捕獲には賛否両論ありますが、ここに来る生命は、人もイルカやゴンドークジラも、神様との約束があってこそと感じることが多かったです。
私も導かれたのかな〜  
それはそれはハードな2週間でしたとさ 笑

そしてその後
家族と遊びに行きました。
スタッフの皆様

そして
小夏・ルル・ポエポエ・ソラ ありがと〜♡

スペシャルサンクス♡
60歳 還暦を迎える年を迎えて
(2022年8月)

2022年2月4日 立春にホームページが目標のところまでできました。
ペライチさんがホームページ作成講座を無料で開いてくださったおかげです。
また
・このホームページの前に公開していたランディングページを作ってくれたあちゃこさん
・あなたの言いたいことはさっぱりわかりませんよと言ってくれたジュリーさん
・言葉の整理を手伝ってくれたあゆみさん
・私のお友達として紹介させてくださった皆さま
・常に私を素に戻してくれる家族たち
本当にありがとうございました。

この1週間、必死で取り組みました。
ふみこストーリーも加えましたが、
私の足跡はこんなにスッキリと素敵なことばかりではありません。
この背景には、たくさんの人を傷つけ、たくさんのことに傷つき
失語症になったり、消えてしまいたくなったり
人には言いたくないことも、
人には言えないようなことも

たくさんたくさん経験しました。
全てがピースとして、
はまったからこそ今の私です。

そして出来上がったホームページです。
どんなことがあるの?と興味がある方
お会いした時に、聞きたかったら、どうぞ聞いてくださいね。

あなたは今 幸せですか?と問われたら
一滴の躊躇なく
「はい!幸せです♡」と答えることができます。

約30年前に
日本人の80%が
自分の人生の終わりに「こんなはずじゃなかった」と言うと。
この言葉を知らなかったら
ここまでストイックに自分の幸せを追求しなかったと思います。
この言葉に出逢わせてくれた人こそ
一番の恩人かもしれません。
30年近くかかりましたが

おかげさまで
どのタイミングで終わりが来ても
「あ〜〜楽しかった〜 ありがと〜〜」と
終われる自信がつきました。
ありがとうございます。

この世に生を受けたこと
この世に私を存在させてくれた両親に
心から感謝します。
ありがとう^^

還暦感謝

2022年8月30日おかげさまで元氣に還暦を迎えました。
この世に私を迎えてくれた両親に、
そして姉、そこに繋がってくださっている
ご先祖様に心から感謝申し上げます。

また
おかげさまで3人の子どもと3人の孫に恵まれています。
夫さんとの出逢い、そして子どもたちと出逢ってくれた
それぞれのパートナーに心から感謝します。
そして
今まで出逢ってくださった
たくさんの皆さまとのご縁があってこその今です。
心から感謝いたします。

子どもの頃に感じていた60歳は
本当に「おばあちゃん」って感じでした。
そう考えると、体力も気力も元氣もあります。
還暦は大きな節目ではありますが
大先輩方を見ていると、まだまだこれから!
何歳までを決めてきているのかわかりませんが
自分の内側に湧いてくる思いを大切に
目の前のこと(人)を大切に
精(笑)進します。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2022年8月
倉敷の実家 片付きました。
さぁ これから☆  楽しみです♡

そして。。。
2023年6月
急きょ手放すことになりました。

ここからは
新たな展開 たんぽぽハウス 〜笑顔の発信基地〜 in  淡路島
たんぽぽハウス 〜笑顔の発信基地〜 については こちらから